2007年04月06日    原風景 原体験


原風景

子どものころの遊びを思い返してみると、
自分たちが遊んでいた風景も思い出されて、懐かしい気分になる。
それは、心の中にあって忘れることのできない、
我々がふと立ち返ることのできる風景。
映像的に心に焼きついて記憶されている、幼い日を過ごした場所・環境。
つまり「ふるさと」。
そういうものを「原風景」と呼ぶのだろう。



誰もが思い当たる原風景というものがあるだろう。
幼いころ、駆けずり回って遊んだ野原や神社、
友だちと遊んだ校庭、
釣りをした溜池、
夢中になった昆虫採集─

「原体験」という言葉がある。
その人の人格を形成するのに影響した、通常、幼い日の体験をそう言うが、
原風景とともに思い起こされる遊びは、
まさに原体験と呼べるのではないか。



心と体の奥深くに記憶された幼いときの豊かな原風景・原体験は,
創造性,人間性豊かに育つための基盤となるだろう。
また、ふるさとに愛着を持っている人は、豊かな原風景を持っている。
そんな原風景・原体験を
子どもたちに大切に心に刻んでいってほしい。


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Posted by 八日市に冒険遊び場を作る会 at 07:56 │Comments( 2 ) 子どもの遊び
この記事へのコメント
小学校低学年のとき、毎日神社で遊んた。
神社には、大きい木があって、神輿をいれる蔵があって、
周りに川が流れてて、町中を走り回って遊んでたのを覚えてる。

その近くに牛舎と豚舎があった。
牛がしっぽを振って、ハエを追い払っていた。

いまでも牛の香を嗅いだとき、なんか懐かしい。
Posted by ブライアン at 2007年04月06日 22:07
神社は集落のここになくてはならないという場所にあって、なぜかでかい木がなくてはならないようです。

集落に公民館はなくてもあまり困らないけど、神社がないと気持ちがソワソワして落ち着きません。

江戸から明治にかけて治安が乱れたときに、旅の法師が自ら生き埋めになって混乱を収めた記録が町の歴史にあります。そこにも神社が建ちました。

神社というものはないと人の心がおかしくなるものなんです。そして建てると騒ぎが収まるという不思議なものです。

日本にとって神社の歴史はとても古いもので、地下の水脈の深いところにつながっているもののようです。木の根っこの部分といってもいいかな。

神社のなかの公園で遊ぶのと、普通の公園で遊ぶのとでは何か違うと思います。神社には特有のリズムがあって眼に見えない境界線があります。精霊がはずんでいるようなリズムでしょうか。

神社には力が動いていく方向があって単純ではないですが、なぜか歩かされます。そしてあるところにくるとしばらく立ち止まる、そしてはっと何かに気づいた気がしますが別に何もないようでもあり、しばらくすると飽きてきて、一定の時間を過ごした後帰るしくみになっているようです。

神社の周囲の林からは視線を感じます。人間の視線よりも何十倍も微弱ですが直線的でなく全体に広がるような視線です。思考も感じます。人間とは種類も波長も違うけれど感じます。こういう感覚を感じるのは生まれつきも関係あるかもしれませんが、生活環境も関係あると思います。だからどうというわけではないけれど、体が感じることなので何か意味のあることなのかもしれません。
Posted by アキラ at 2007年04月12日 02:33
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