2008年11月30日    遊び場での大人の居方

天野さんの講演の内容を報告、
10回シリーズの第3回目は、「遊び場での大人の居方」です。

冒険遊び場講演会「遊びは生きる力!」より

 羽根木プレーパークで、最初に、無駄なというか、ただ穴を掘ったのは僕が最初だった気がする。その穴を掘っていたときに、学校帰りに小学1年生が寄ってきた。それで、見かけない顔が穴をほっていると、「何やっているんですか」と聞いてきた。聞いてきたので「穴をほってるんだよ。」と答えた。すると、「穴掘って何するんですか」と聞いてきたから、「掘りたいからほってるんだけど」と答えたら、子どもは5秒くらい考えた後に僕にいったことは、「あの~、公園に穴ほったらいけないことを知っていますか」といった。

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 子どもというのは、良いとか悪いではなく、
    面白いかつまらないで考えて動く存在

         善悪(×)  ⇒ 快か不快(○)  = ”情動

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 30年前です。僕は、葛飾の下町で生まれ、がさつな子どもが多くて、世田谷の子どもはなんて上品でしつけの行き届いたと思ったと同時に思ったことは、なんとつまらないガキなんだと思った。子どもというのは、良いとか悪いではなく、面白いかつまらないで考えて動く存在だった。ダメだって言われたって、どうしたってやっちゃう。学校帰りに買い食いや寄り道がダメといわれてもそれがたのしいわけで、いくらダメだといわれても、遊ばないことにはなあ。友だちとあそこで食べることが唯一のたのしみだったり、秘密の場所によったりすることが、学校で嫌なことあったときの癒しの時間だったりとかいろいろあったわけで、それを、禁じられてもなあ、やっちゃうんだよな。っていう自分の子ども時代を思い出すわけですが。それを、「穴をほっちゃいけないと知っていますか」という子どもの反応は想定外だったわけです。

 その想定外ということが始まりです。つまり、遊ばないんです。羽根木プレーパークは、羽根木公園の一角にあって、公園の坂を降りた所に学校があったので、前が通学路になっていた。朝行くときには、まだ僕はいないが、帰りにはいるので、毎日のように「おかえり~」など声をかけていた。そうすると、その子たちは、知らない大人と口を聞いてはいけない。とよけて通る。それから一週間もたたないうちに、学校の連絡網で、最近、羽根木公園に髪の長い不審者がいるので、注意して下さいと回覧板で回るんです。(笑)それで、子どもに声をかけるのをやめた。やめたが、仲良くなりたい。世田谷の地は初めてで、不審者だと言われているし、そこで、はじめたのが、郵便受けを作ったんです。郵便屋さんが配達してくれるように。次は、本棚を作った。すると、何と、こちらから寄っていっても避けていた子が、今度はくるんです。最初は「何やっているんですか」と。こうくるもんだから「ポスト作っているんだよ」と「郵便屋さんに手紙をいれてほしいから作っているんだよ」と、話が始まった。

 区には学童クラブがあって、その学童クラブにポストがなかったので、学童クラブのポストも作って、手紙の交換を始めようかと、作っていたら、子どもが寄ってきて、そしたら、子どものほうから「僕もつくりたい」と言い出した。「私も」と言い出した。それで、「あそこに材料一杯あるから、つくってもいいよ」とはじまった。子どもは勝手にはじめたんです。この関係でいいんだなと、自分の居方を感じた。つまり、寄っていくといや。でも、寄ってくる分にはいい。それでいいんだと気づいた。

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 子どもは、寄っていくといや。でも、寄ってくる分にはいい。

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 でも、日本の中で、プレーリーダーは前例がなかったので、冒険遊び場の常設も前例がない、自分の記憶をたどると、僕は大人の目の前ではあまり遊ばなかった、むしろ、大人の目を盗んで遊んでいた。かすめて遊んでいたという子ども時代を経験している。なぜかというと、大人は、よくうるさいから。やかましい。いろいろああしなさいなど。いいとか悪いとか。だめでしょなど、いろんなこといってくるからうるさい。だから、おとなの前ではいろいろとうるさくいわれない遊び方をしていたが、子供同士で、熱中していた遊びは、いたずらを含めて、そんなほうのが、面白く、大人の目に触れないようにしていた。大人を連れてきたりすると逆に「きたねえぞ」など言われたくらい。大人の距離感を持っていた経験を持っている。

 そうすると、その自分の体験からすると、遊び場に大人がいるということは、自分の中では違和感がある。大人がいると遊びがつまらなくなってきたという経験から、目をかすめて遊んできたのに、自分がそこにいるわけ。当然、火やナイフを使うから、さっきいったように安全面で何か起こったときに対応するために大人がいるというのはわかるんだけれども、大人がいることで、出来なくなってしまう遊びがあるんじゃないかと懸念した。やはり、自分自身の居方。大人がいることで、つまらなくなるようであれば、遊び場とはいえない。いないほうがましだが、大人がいることで、より面白くなるような居方とは、どうするばいいのかを考えた。いることで面白くなる。そう考えると、いろんなことが見えてきた。

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 大人が指導者として君臨すると、出来ない遊びがやまのようにできる!

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 今までの多くの大人、いわゆる指導者といわれる人たち、プレーリーダーも遊びの指導者と訳されるが、子どもの遊びに大人の指導者が必要であるということは、否定形で考えている。大人が指導者として、君臨したら、ろくなことがおこらない。遊び場である以上は。というのは、大人が指導者として君臨するとできない遊びがやまのようにできる。むしろ、大人の指導してやらせられる遊びは少ない。とんぼの羽むしりを指導できますか?とんぼの羽むしりを目の前で指導されたらどうします?大人が一緒になって楽しむなんて気持ち悪い。子どもと一緒になって「すげえ」なんでいえない。そういう遊びは一杯ある。

 例えば、羽根木公園は大きいんです7haあり、3000㎡くらいを使い、やっていますが、昔からの木がある。雑木林のような感じです。これが世田谷の中なのという感じです。そんなような斜面があり、木が生えているんですが、そのプレーパークの端っこの方で、なんかものすごく、にぎやかな声が聞こえる。端は遠くて斜面があるから見えにくいが、何か歓声が聞こえて楽しそうで、見ていたら、何かを引きずっている。よく見ると、あれは、木だ。僕は、あわてて飛んでいった。枝も葉もついている木。どうしたのってきいたら、みんなでにこにこしながら、きっちゃった。と大喜び。子どもの手には、斧やなた、のこぎりが。丁度切りやすい、腰の位置で切られ、ズタズタな切り株が残っていた。公園には都市公園法が残っていて、山の木を切るのとは違う。公園の人は、どう理解しているのか最中に、公園の大事な木を切ったもんだから、これはやばい。と思ったので、ノコギリを使って、切り株を根元から切り取った。僕は、血相を変えて、切ったもんだから、子どもたちは大変なことをしてしまったと察知して、隠すための土を取りにいった。そして、何もなかったというんだぞ。と。

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 時には、見て見ぬふりをしないといけないときがある!

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 そんなようなことが子どもの遊びには起こる。知っていたら止めないといけない。大人は。知っていたら。一緒に切ろうといわれても切れない。世田谷には、農地が残っていて、完全な住宅地ではなくて、畑もある。あるとき、プレーパークにいたずら好きの子どもがいるんですが、常に何かやらかす5年生がいて、その子のまわりに何人かいる。その子たちが、何かいいもの見せてやるよと、にたにたしながらきたんです。何かやったときの顔できたので、見たくないと断ったが、畑を作ったので、どうしても見せてやるというので、見に行った。すると、ちゃんと畝が作られていて畑になっていた。けど、目が点に。あと、収穫したらいいだけの、キャベツや大根があった。(笑)「どうしたの?」と聞いたら、「とって来た」と、にたにた笑っているわけ。そのとってくるのが、どれだけ、スリルがあって、どれだけ自分たちが知恵を働かせたかを自慢げ語ってくれるわけ。どこに見張りを誰を立ててとか、自分は異変があったときに叫ぶ係だとか、畑から引き抜く係とか、役割が出来ていて、それが、ほんとに面白かったみたいで、一生懸命はなしてくれるが、その瞬間、こっちは、大人である俺のことをどう思っているのかと思うわけ。大人としては、それをいっしょになって、それは面白かっただろうなと言えないし、(面白かっただろうけど、よかったねとは言えない)それが、大人の限界なんです。だから、大人が遊びの指導者として君臨してはならない。なってしまったら、大人がにこにこして笑っていられるだけの遊びでしか子どもは遊んでいないということなんです。だから、時には、見て見ぬふりをしないといけないときがある。見たらまずいだろう。例えば、おたまじゃくしをつぶしたり、目の前でやられたら、大人としては、何も言わないと、大人が承認していると思われると、これはちょっと違う。それはちょっと違うけど、子どもはやってしまう。そう考えると、大人がいちゃいけない。そのときは、逃げる、という形でいるわけです。大人の居方というのは、遊びの世界では難しい。


つづく。次は、「指導者ではなく、遊び心を誘い出す」です。


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Posted by 八日市に冒険遊び場を作る会 at 18:45 │Comments( 0 ) 遊育講演会 報告
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